個別情報(甲)【甲と甲:甲州法度之次第、甲州道中】
この個別情報は拙子のわずかな経験の書き連ねです。一知半解で不足が多々ありますことをご容赦ください。
【甲州法度之次第】
◯スライドショーの文書は「甲州法度之次第」です(東京大学法学部研究室図書室法制史資料室所蔵、画像データ掲載の利用確認済み)。なお、本サイトのスペースの関係から文書の書き出し部分のみをスライドショーの形式で掲載しています。
・御存知の戦国大名武田信玄が甲斐国(甲州、山梨県)を統治するために制定した分国法です。「甲州法度之次第」は「信玄家法」とも呼ばれ、掲載のスライドショーは57ケ条のものです。
・「甲州法度之次第」は天文16年(1547年)6月に当初26ケ条として制定され、その後天文23年(1554年)までに徐々に条文が追加されて57ケ条になったとされています。スライドショーの表題部の円形の朱印判は武田家滅亡の武田勝頼まで使用されたとされています。またこの文書の末尾には「天正八庚辰年二月十七日書之」の記載があります(天正8年=1580年)。
・内容は家臣や領民の守るべき規律が定められていますが、その中でも喧嘩両成敗の条項と最後の条文で「信玄自身に法度違反が疑われれば身分を問わず訴えよ」と定めている点が有名です。領主自身に関わるこのような分国法は他の戦国大名に類例がないそうです。以上は「図説武田信玄」平山優著などから引用。
・当時は戦国時代の真っただ中、それぞれの大名は家臣や領民の支配・統制のために制札や禁制などを都度出しておりそれらを集大成するような形で家法や法度が制定されていたとされています。
・分国法としてはこのほかに、大内家壁書、今川家仮名目録、伊達家塵芥集、相良家法度、結城家新法度、六角家義治式目、三好家新加制式、長宗我部元親百箇条、吉川氏法度などが有名とされている(精選版日本国語大辞典より)。
・「甲州法度之次第」の全文は『東京大学法学部法制史資料室所蔵コレクション』でご覧になれます。
・「甲州法度之次第」を活字にした翻刻文はいくつかありますが、『国立国会図書館デジタルコレクション』でもご覧になれます。
・「甲州法度之次第」についても江戸時代において多くの写本・流布本が出されたとされ、それらの内容には多少の差異があるとされています。東京大学法学部法制史資料室所蔵コレクションの文書と国立国会図書館デジタルコレクションの文書も同じ57ケ条の文書ですが、各条項の語句には若干の相違点が見られます。
【甲州道中】
◯「甲州道中」については生煮えで簡単ではありますが、「甲州法度之次第」と「甲州」つながりで少々述べることにしました。
・甲州道中は甲州街道のことです。言い換えていますが軽々に申してはおらず、拙子が江戸時代の古文書を調べた範囲での認識です。
・拙子が解読した古文書は、元禄年代から明治直前の慶応年代までの40通ほどですが、そのすべてが「甲州道中」と記しており「甲州街道」の表記は全くありませんでした。
・拙子の生家が山梨県北杜市の甲州街道に面しており、近隣にその昔の「台ケ原宿」があったことから台ケ原宿関係の古文書を中心に、その他の宿駅の古文書も含めて収集し解読した結果です。
・収集した古文書の差出人の箇所や文中などの所在地名は例外なく「甲州道中」でした。これは意外で思いがけない気付きでした。
・台ケ原宿の所在地は現在の山梨県北杜市白州町で、当時の宿場の風情を色濃く残した街並みが現在も残り「日本の道百選」にも選ばれています。なお、現地の説明案内板は「甲州街道」の方が使われていました。
・江戸時代は「甲州道中」と呼称されていたのは間違いありません。あるいは「甲州道」の途上の地にあるという意味の「甲州道中」だったかも知れません。
・明治新政府の御一新で甲州道が甲州街道へ名称変更されたとも側聞しています。現段階の拙子の理解は途上で、さらに調べる予定の懸案事項にしています。