武野八景の二・・・立野月出たてのつきいず-P1(場所は国分寺市) | 古文書サイトです。戊子サイトです。戊子=つちのえねでは古文書の基礎から上達まで、一般的な知識からその特徴やユニークなことまで、さまざまなページを作成しさらに追加しつつあります。このサイトによって古文書が身近になり古文書の楽しさ倍増になりましたら幸いです。2022年初夏からは江戸時代の武蔵野についての武野八景という書誌の解読を進めています。ホームから興味あるページをご覧ください。

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「武野八景」訳文
武野八景の二・・・立野月出たてのつきいず-P1(場所は国分寺市)

【武野八景の二・立野月出-P1】の翻刻・訳文・注釈
武野八景の二「立野月出」が始まります。「たてのつきいず」と読むようです。前ページまでの六所挿秧につづく武蔵野の魅力はどのような内容でしょうか。見てみましょう。拙子もワクワクです。

立野月出たてのつきいず
・立野⇒所在地は現東京都国分寺市。現国分寺市西元町に武蔵国分尼寺(武蔵野線沿い西側、西国分寺駅南約500m)があり、立野の地はその辺りのようです。。
・月出⇒武蔵国分寺跡資料館の資料に『「立野の月」と題して、武蔵国分尼寺北の国分寺崖線上からの月の出が選ばれています。』の記載あり。

立野は、指す所一ならず、其の説も亦異なり、未た何れか其の實を得ことを知らず、たてのは、さすところひとつならず、そのせつもまたことなるなり、いまだいずれかそのじつをうることをしらず、
・立野⇒立野という場所はいくつかありいろいろな意見があって定かではないと書き出しているが、このような曖昧な地名ではなく具体的な位置を示す地名がない土地であったのだろうか。それでもこの地が八景に選ぶに相応しいということであろうか。
・未⇒再読文字「未だ・・・ず」
・實=実

今取る所は、府中より北國分寺に至まて、直道半里、左右の平原是れなり、往時馬をいまとることろは、ふちゅうよりきたこくぶんじにいたるまで、ちょくどうはんり、さゆうのへいげんこれなり、おうじうまを
鬻て府中の市に牽き来る者、ひさぎてふちゅうのいちにひききたるもの、
・取る⇒地名として妥当と考えられるの意と解す。
・國=国
・直道:(ちょくどう)まっすぐな道路⇒府中本町駅から西国分寺駅の武蔵野線沿いに鎌倉街道があったとされている。
・半里⇒現府中街道で府中市の国府跡から武蔵国分尼寺付近まで約3Km弱あり。
・平原⇒真っすぐな道が半里ほど続くその左右の平原が立野であると解す。
・往時:(おうじ)昔、以前
・鬻:(しゅく、いく)ひさぐ、売る
・牽き来る⇒原文のままでは「来る府中の市に牽き者」となるため文脈から「牽き来る」と解した。このように二字の語の間に返り点がある場合でハイフン(竪点、合点)が省略されている例が幾つか出現しており、写本の記載漏れなども考えられるが拙子の勉強不足が大きく理解が追い付いていない。

咸な斯に止る、馬を立を以て名を為と云、今や農田と為と雖、猶尚曠野の形勢有、みなここにとどまる、うまをたてるをもってなをなすという、いまやのうでんとなすといえども、なおなおこうやのけいせいあり、
西の方遠くは連峯の外に、にしのほうとおくはれんぽうのそとに、
・咸:(かん)みな、ことごとく、同じ、ゆきわたる
・立⇒物事を成立させつ、ある位置につける、重要な地位につける、などの意あり。
・猶⇒猶に返り点がないので再読文字ではない。「猶尚」で「なお」を強調している。
・曠野=広野
・峯=峰

富嶽の秀出するを望み、近くは國分寺より西南、邐迤たる林端に、富士塚と云有、此のふがくのしゅうしゅつするをのぞみ、ちかくはこくぶんじよりせいなん、りいたるりんたんに、ふじづかというあり、この
塚に登れは、一瞬千里、つかにのぼれば、いっしゅんせんり、
・富嶽⇒富士山
・秀出:(しゅうしゅつ)他より一段とすぐれている、抜きんでている
・國分寺=国分寺⇒国分寺市西元町3丁目10に「武蔵国分寺跡」がある。
・邐迤:(りい)曲がりくねって連なるさま⇒邐:(り)連なり行く、迤:(い)斜めに連なる⇒「迤邐」も「迤迤」も同義。
・富士塚⇒国分寺市西元町4丁目11に「尼寺北方の塚」があるが、現地案内板にはその旨の説明なし。尼寺北方の塚がある武蔵台という地は国分寺の西南になる。
・云⇒「云」の漢字を読み仮名にしている。このような例が他にもありその理解が不明のまま。

殊に奇觀たり、東は即遥天の地に接するを見るのみ、秋晴の夕へ、月出の光、草間よりことにきかんたり、ひがしはすなわちようてんのちにせっするをみるのみ、あきばれのゆうべ、つきいずのひかり、くさまより
生し、古歌の詠する所、しょうじ、こかのえいするところ、
・奇觀=奇観:(きかん)珍しい見もの、変わった眺め
・遥天:(ようてん)はるかに遠い空

今猶虚ならず、故に幽人騒客、中秋武野の月を見る者の、此の地最も多し、國分寺のいまなおうつろならず、ゆえにゆうじんそうかく、ちゅうしゅうぶやのつきをみるものの、このちもっともおおし、こくぶんじの
正面農田の中に、しょうめんのうでんのなかに、
・幽人:(ゆうじん)世を逃れてひっそり暮らしている人
・騒客:(そうかく)詩歌・文章などを作る人、詩人、詩客、騒客⇒騒人:(そうじん)文人、詩人、風流を解する人

二王門の跡有、基石存す、甚た大ひなり、其の四邉數百歩の間、往往古瓦の破碎せる有、におうもんのあとあり、きせきそんず、はなはだだいなり、そのしへんすうひゃっぽのあいだ、おうおうふるがわらのはさいせるあり、
・二王門=仁王門
・基石:(きせき)土台となる石、礎石
・邉=辺
・數=数
・碎=砕
・往往:(おうおう)あちらこちら、ところどころ

 ⇒この部分は次ページ「立野月出-P2」へ繰り越す

【武野八景の二・立野月出たてのつきいず-P1】ここまで

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  • 善哉よきかな (1)
初めに・・・武蔵野の素晴らしさ!その読み解きのスタートです。 表紙と見開き・・・肉太の書跡にデザイン性を感じます。 序文1-P1・・・關脩齢による序-P1 序文1-P2・・・關脩齢による序-P2 序文1-P3・・・關脩齢による序-P3 序文2-P1・・・作者「峡南山人」による序-P1 序文2-P2・・・作者「峡南山人」による序-P2 序文2-P3・・・作者「峡南山人」による序-P3 序文2-P4・・・作者「峡南山人」による序-P4 序文2-P5・・・作者「峡南山人」による序-P5 序文2-P6・・・作者「峡南山人」による序-P6 序文2-P7・・・作者「峡南山人」による序-P7 凡例・・・本文著述に先立つ4箇条の説明 武野八景の一・・・六所挿秧ろくしょそうおう-P1(場所は府中市) 武野八景の一・・・六所挿秧ろくしょそうおう-P2 武野八景の一・・・六所挿秧ろくしょそうおう-P3 武野八景の一・・・六所挿秧ろくしょそうおう-P4 武野八景の二・・・立野月出たてのつきいず-P1(場所は国分寺市) 武野八景の二・・・立野月出たてのつきいず-P2 武野八景の三・・・玉川觀魚たまがわかんぎょ-P1(場所は立川市、日野市) 武野八景の三・・・玉川觀魚たまがわかんぎょ-P2 武野八景の四・・・函碕舊池はこざききゅうち-P1(場所は西多摩郡) 武野八景の四・・・函碕舊池はこざききゅうち-P2 武野八景の四・・・函碕舊池はこざききゅうち-P3 武野八景の五・・・吾庵疉翠ごあんじょうすい-P1(場所は所沢市) 武野八景の五・・・吾庵疉翠ごあんじょうすい-P2 武野八景の五・・・吾庵疉翠ごあんじょうすい-P3 武野八景の六・・・宅部寒鴈やけべかんがん-P1(場所は東大和市、東村山市) 武野八景の七・・・将塚暮靄しょうちょうぼあい-P1(場所は東村山市、所沢市) 武野八景の七・・・将塚暮靄しょうちょうぼあい-P2 武野八景の八・・・金橋櫻花きんきょうおうか-P1(場所は小金井市、小平市) 武野八景‐各地の挿絵・・・一枚のスケッチが多くのことを伝えています。
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