【武野八景の三・玉川觀魚-P2】の翻刻・訳文・注釈
枚擧に足らず、上流未だ多摩郡に及はざる間た、陟釐を出す、頗る可なり、日野津
以西は、
・擧=挙
・陟釐⇒国立国会図書館デジタルコレクション「本草圖譜.34、本草図譜刊行会、大正5-1」には「陟(ちょく)釐(り)」として「かハもづく、かはあをのり」の説明がある。陟釐を「水中の石や土の表面にあるコケ」と説明している書物もあるが実体は同一と思われる。
・可なり⇒「いいものだ」の意と解す。
・日野津⇒「日野の渡し」は多摩川に架かる現在の立日橋付近にあったとされる。甲州道中の渡し場で大正15年までは日野渡船場として使われていたがその後に橋ができて廃止された。現日野市側にあった日野宿が渡し場の管理をしていたとされいるが、その関係で日野津という呼び方になったのであろうか。
山石の美、竒絶尤も多し、以東は平地と雖、長流の經る所、往往觀を改め、亦復た
勝景無きにせず、
・山石:(やまいし)山から出る石
・竒絶=奇絶:(きぜつ)すぐれてめずらしい
・經=経
・往往:(おうおう)ところどころにものごとがあるさま、あちこち
・觀=観
而して日野津 東都を距ること、十里にして近きは、則 都人士觀魚の遊を為、尊貴の
微行と雖、
・空白⇒「東都」に対する敬意表現の闕字
・原文読み仮名のヿ⇒「コト」の変体仮名
・十里⇒江戸から10里の一里塚は現在の日野自動車敷地内にある。9里の一里塚は「万願寺の一里塚」というものが中央高速と多摩モノレールが交差する付近にあるが、これは街道筋が万願寺の渡しから日野の渡しに移る前の一里塚の模様。その両者の中間辺りに日野宿本陣跡が位置する。
・原文読み仮名の寸⇒「キ」の変体仮名
・空白⇒「都」に対する敬意表現の闕字
・都人士:(とじんし)都会に住んでいる人々、都人
・微行:(びこう)こっそりと出かけること、おしのび
之を限らは遠地の譏り無かるべし、過くれは即流連の憂を免れず、故に圖するに日野津
を以す、
・過くれは⇒「ここより遠くの地にした場合は」の意と解す。
・遠地:(えんち)遠く離れた土地や地点
・流連:(りゅうれん)遊興にふけって家に帰るのを忘れること
・圖=図
此れ甲府の驛にして、八王子に接連し、吏人啇賈、往還尠からず、沙塲廣豁にして、流れ
一帯に非、
・驛=駅⇒宿駅(宿場)の意
・にして⇒「~の場合でも」「~でさえも」の意と解す。
・接連⇒連接(つらなり続くこと)と同義と解す。
・吏人:(りじん)役人、官吏
・啇賈⇒商賈の意と解す。啇(てき)は商とは別字、賈(こ)は買とは別字だが、「商賈」の言葉は辞書にあり。
・商賈:(しょうこ)あきなうこと、商売、商人
・往還:(おうかん)行き帰り、往来
・尠:(せん)少ない⇒はなはだ少ないの意あり。
・沙塲⇒沙は砂の意、塲=場で、「さば」と読み砂場の意と解す。
・廣豁⇒廣=広、豁は広いの意で、「こうかつ」と読み広々としている意と解す。
・一帯:(いったい)ひとすじ
汜も亦舟梁もて之濟す、其の間た善く藥草を生す、時に及て賈人来り采る者の、大率日を
虚せず、
・汜:(し、じ)本流から分かれてまた本流に入る川、行き止まりになっている川、岸
・舟梁:(しゅうりょう)船を並べて作った橋
・藥草⇒日野市に京王百草園があることにも関連した事柄と解す。
藥=薬
・賈人:こじん:商人
・大率⇒「率」一字で、おおむね、おおよそ、大体、の意あり。
西北は秩父甲州の諸山を望み、東南は堤塘の斜に連るを見る、渡口は流の移徙に随て、
定所有ること無し、
・堤塘:ていとう:つつみ、どて、堤防
・渡口:とこう:渡し場、渡し場の発着場
・移徙:(いし)移り動く、移転
【武野八景の二・玉川觀魚-P2】ここまで
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