【武野八景の七・将塚暮靄-P2】の翻刻・訳文・注釈
初有僧房 ⇒前ページ「将塚暮靄-P1」からの繰り越し
初め僧房有て之を護す、榮春庵と曰、廢亡幾んと三十年、今唯碑のみ草間に在、好事の者
時時就て打す、其の文左の如し、
・僧房:(そうぼう)僧尼の起居する寺院付属の家屋
・榮=栄
・榮春庵⇒永春庵ともいわれている。
・廢=廃
・幾:(き、いく)ほとんど
・碑⇒一般的に「元弘の碑」という。正式名は「板碑 元弘三年 斉藤盛貞等戦死供養碑」で国指定重要文化財(大正3年8月に国宝に指定され昭和25年の文化財保護法制定で重要文化財に指定)。東村山市の徳蔵寺蔵。
・碑は秩父産の緑泥片岩で作られ青石塔婆ともよばれる。実寸は高さ147㎝、幅44㎝。
・好事:(こうず)風流を好むこと、珍しいことや変わったことに興味をもつこと、ものずき
・打す⇒「だす」の読みで良いか不安あり。「打つ(うつ)」であれば石碑の拓本を取ることを「拓本を打つ」という用法がその分野では一般化している模様であり、本文の「好事の者」との関連からも「拓本を打つ」の意味で用いられていると解釈する。
なお、中国語には「打」に「~する」の意があると説明しているもあり、「打算」や「打扮」も同様の意味と思われ、また「打」には「平らなところに差し込む」語義があるとの説明も目にするので、「打す」は「草に埋もれ倒れている石碑を立て直す」意とも解せる。
飽間齋藤三郎藤原盛貞廿六
於武州府中五月十五日令討死
觀進玖阿弥陀佛
元弘三𠦚(年) 癸酉 五月十五日 敬白
同孫七家行廿三同死飽間孫三郎
完長於相州村岡十八日討死
犱筆扁阿弥陀佛
・上記碑文は現存する碑と次の点で異なっている。
※1.碑形:原文は板碑上部が山形になっているが、碑実物は上部が欠損しやや右下がりのギザギザになっている。
※2.光明真言:原文には記されていないが、碑実物には上部に光明真言が梵字で彫られていてる(一部が石碑の欠損部分にかかっている)。光明真言(こうみょうしんごん)は真言密教でとなえる呪文の一つ(オンアボギャ・ベイロシャノ・マカボダラ・・・)。
※3.生年:原文には記されていないが、碑実物には盛貞と廿六の間に「生年」が彫られている。
※4.宗長:原文は「完長」となっているが、碑実物は「宗長」となっている。
※5.丗五:原文には記されていないが、碑実物には宗長と於の間に「丗五」(35歳)が彫られている。
・飽間齋藤三郎藤原盛貞⇒新田義貞の陣営の武将。通称姓氏が重ねて記されているのは珍しいとされている。上野国(現群馬県安中市)に飽間郷があり出身地とされている。
・廿六⇒26歳
・於武州府中五月十五日⇒府中付近の新田軍と鎌倉軍の闘いで5月15日に戦死した。
・觀進=勧進:(かんじん)板碑建立のために広く人々に勧めて金品の寄付を募ること、その人
・玖阿弥陀佛⇒僧侶の名
・元弘三𠦚(年)⇒西暦1333年。鎌倉幕府は同年5月に滅亡している。
・ 𠦚⇒年の古字(則天文字)
・癸酉⇒みずのとのとり、元弘三年の十干十二支
・五月十五日⇒命日
・敬白:(けいはく、けいびゃく)うやまって申し上げる、願文の末尾に用いる挨拶の言葉
・孫七家行⇒藤原盛貞の一族とされている。
・廿三⇒23歳
・飽間孫三郎宗長⇒藤原盛貞の一族とされている。
・相州村岡十八日⇒相模国村岡(現神奈川県藤沢市村岡)付近の新田軍と鎌倉軍の闘いで18日に戦死した。
・犱筆=執筆
・扁阿弥陀佛⇒僧侶の名
・碑文に記されている三氏(藤原盛貞、孫七家行、孫三郎宗長)の過去帳が徳蔵寺にある。
・碑文の内容は「太平記」(室町時代に書かれた軍記もの)の内容と一致し且つ太平記に記されていないことも含まれていることから、太平記の史実を補強するものとして希少性が重視されている。
・府中の戦と鎌倉村岡の戦いで戦死した者の碑が現八国山にあったことの理由は定かではないとされている。
【武野八景の七・将塚暮靄-P2】ここまで。
次は八景の最後の景勝地【金橋櫻花】になります。どうぞ次ページにご期待ください。