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「武野八景」訳文
武野八景の七・・・将塚暮靄しょうちょうぼあい-P1(場所は東村山市、所沢市)

【武野八景の七・将塚暮靄-P1】の翻刻・訳文・注釈
武蔵野の名所の七カ所目になります。八景もいよいよ残り少なくなりました。毎回の4文字のタイトルも味わい深いです。当時の人々も武蔵野とはどんなところだろうと本誌を読み進めたのではないでしょうか。

将塚暮靄しょうちょうぼあい
・将塚⇒現在は一般的に将軍塚と呼ばれている。
・暮靄:(ぼあい)暮れ方にたちこめるもや、ゆうもや

将塚は、狹山の東に終はる嶺上に在、しょうちょうは、さやまのひがしにおわるれいじょうにあり、野口・久米・久米川三村の間に接して、而してのぐち・くめ・くめがわさんそんのあいだにせっして、しこうして
塚は野口村に属す、つかはのぐちむらにぞくす、
・狹山=狭山
・東に終はる⇒東端の意と解す。
・嶺上:(れいじょう)山の上
・野口⇒武州多摩郡野口村⇒現東京都東村山市野口町
・久米⇒武州入間郡久米村⇒現埼玉県所沢市久米
・久米川⇒武州多摩郡久米川村⇒現東京都東村山市久米川町
・野口村に属す⇒現在の市町村区域では将軍塚は所沢市松が丘(旧久米村の一部)の区域に入っている。⇒野口、久米、久米川三村に接するとの記載から将軍塚の位置は現在の場所を指しているようにも思われる。

郷里號して将軍塚と曰、經り十歩餘、髙さ二仭許り、昔大松孤立す、今唯ゝ盤根のみむらざとごうしてしょうぐんつかという、へりじゅっぽあまり、たかさふたひろばかり、むかしおおまつこりつす、いまただばんこんのみ、
存す、ぞんず、
・郷里⇒むらざとと読んだ。
・號=号
・經り(=経り)⇒塚の周囲の広さを伝えている。
・髙さ(=高さ)⇒塚の高さを伝えている。二仭は土塁自体の高さと判断できる。現在土塁の上の石碑は当時のものではなく、文脈からは塚の上には松の盤根があったと解釈できる。なお、現在の土塁の高さはその半分(一仭)程度になっている。
・餘=余
・仭:(じん、にん)ひろ⇒深さや高さを測る単位。両手を広げた長さが「1ひろ」で「1尋(ひろ)」とも書く。1ひろは6尺=1.8mが一般的とされる。
・盤根:(ばんこん)わだかまった根、曲がりくねった根

二松其の側に雙立す、未だ甚た大ならず、傳へ言ふ元弘中、新田左中将師を斯に次し、にしょうそのそばにそうりつす、いまだはなはだだいならず、つたえいうごんこうちゅう、にったさちゅうじょうしをここにやどし、
・二松⇒「にしょう」と読んだが「ふたまつ」と読むか。
・雙立=双立:(そうりつ)ならびたつこと
・傳=伝
・元弘中鎌倉時代末期の元弘の乱(げんこうのらん)の時期を指す。元徳3年から元弘3年に鎌倉幕府と倒幕勢力の間の全国的内乱があった。
・新田左中将⇒新田左中将義貞。鎌倉幕府を倒した最大の功労者とされる。
・師:(し)軍隊
・次:(し、じ)やどる、軍隊が宿営する、宿営地、陣屋

大旗を建るの迹なりと、或は曰埋むと、又曰、中将公黄鉞を杖き、白旄を秉て立つ處おおはたをたてるのあとなりと、あるいはいううむと、またいう、ちゅうじょうこうこうえつをつき、はくぼうをとりてたつところ
なりと、なりと、
・迹=跡
・黄鉞:こうえつ:黄金で飾ったまさかり、天子が自ら征討に赴くときの鉞
・鉞:(えつ、おち)まさかり、斧よりおおきいものが鉞、征討のときに天子が将軍に授ける斧
・白旄:(はくぼう)白い旄牛(からうし)の尾を竿の頭につけた旗、大将が指揮するに用いる。古書に「王、左に鉞を杖き、右に白旄を秉り、」の一節あり。
・旄牛(ぼうぎゅう)⇒ウシ科の哺乳類、ヤクのこと
・秉:(へい、ひょう)とる、もつ、手に握る
・處=処

日暮の觀眺、靄霧蒼茫として、幽景賞すべし、懐古の情、亦自感し易し、西の方半里ひぐれのかんちょう、あいむそうぼうとして、ゆうけいしょうすべし、かいこのじょう、またおのずからかんじやすし、にしのほうはんり
許にして、ばかりにして、
・觀眺=観眺(かんちょう)は辞書にない語だが景観眺望の略語とも解せる。(参考)東京国立博物館に「高士観眺図(こうしかんちょうず)」と題名の中国の古い墨図があるなど語としての用例はある。
・靄:(あい)もや、雲のたなびくさま⇒参考用例:和気靄靄=和気藹藹(わきあいあい:和やかな気分が満ち満ちているさま)
・蒼茫:(そうぼう)見渡す限り青々として広いこと
・靄霧蒼茫⇒将軍塚の地点から山の周囲を見渡した情景だろうか。塚から見渡す麓に靄が雲海のようにたなびき、足元には一面草むらの峰々が広がっていたのだろうか。
・幽景⇒(ゆうけい) 奥ゆかしくて静かな景色と解す。
・懐古:(かいこ)昔を思い出してなつかしく思うこと
・半里⇒当時の一里は36町=3.927m
・原文の「感」の文字および次行の「也」の文字に鍵カッコが付されている。本誌の何カ所かにあるがこの意味と役割が解明できていない。

數峯濯濯として最も髙き處有、八國峯と曰、盖し八州の諸山を望を以名を為なり、すうみねたくたくとしてもっともたかきところあり、はちこくみねという、けだしはっしゅうのしょざんをのぞむをもってなをなすなり、
・數=数
・峯=峰
・濯濯:(たくたく)光り輝くさま、水で洗ったように清らかで鮮やかなさま⇒「西の方半里」先までを眺めて「數峯濯濯」とは一体どういう光景であったろうか。青い草が一面に繁茂して風に揺られ陽の光にキラキラ輝く峰だったのだろうか。
・最も髙き處有⇒国土地理院地図で見ると八国山最高地点は標高100.4mで、尾根道からひだまり広場へ分岐する小道を少し進んだ地点と思われる。将軍塚からの距離はGoogleMapで1.1Km位になる。 原文でいう「半里」の場所は八国山西端の「西入口広場」から少し手前になり国土地理院地図でみると99.3mの地点になる。あるいは地形の変化や住宅地造成などの変化があったかも知れない。
 当時の八国山は裸山だったのだろうか、そのような状況も考えられるが、現在の八国山は樹木が生い茂りその最高地点を特定することはできず、東西約2Kmの細長い地形は見定められるがそのいくつかの峰の高低は定かではない。
・八國峯⇒この東西約2Kmの丘陵を現在は八国山と称している。トトロの森に出て来る七国山のモデルとされている。
・盖:(けだし)まさしく、たしかに、ほんとうに⇒ほとんどの場合漢文訓読系の資料のみに用いられる語とされる。
・八州⇒この「八州」はいわゆる「関八州」なのだろうか。「八州の諸山を望み」は眺望の範囲の地をいっているのだろうか。具体的な地名は関八州の地とは異なるが、当時「関八州=関東八州」はすでに一般的な用語でありその地名を誤ることは考えられない。これは八国山の名称の謂れを示すものとして注目すべき記述であるかも知れない。
当時の関八州は、相模さがみ(現神奈川県),武蔵むさし(現埼玉県、東京都、神奈川県東部),安房あわ(現千葉県南部),上総かずさ(現千葉県中央),下総しもうさ(現千葉県北部、茨城県南部),常陸ひたち(現茨城県),上野こうずけ(現群馬県),下野しもつけ(現栃木県)の八か国を指す。
本誌の八州は、駿河するが(現静岡県中部),甲斐かい(現山梨県),信濃しなの(現長野県)の三ヶ国を含み、武蔵,下総,上野の三ヶ国を除外し、相模,下毛,常陸,安房,上總の五ヶ国は共通している。
・諸山⇒原文のこの位置に返り点がないが文意から「一」があるものとして解釈した。

相模・駿河・甲斐・信濃・下毛・常陸・安房・上總、さがみ・するが・かい・しなの・しもつけ・ひたち・あわ・かずさ、塚より南に下ること二三百歩つかよりみなみにくだること
にして、飽間氏戰死の碑有、にさんびゃっぽにして、あくましせんしのひあり、
・「、」⇒原文は上總の次に「、」はないが便宜上付した。
・下毛⇒下毛野国(しもつけぬのくに)の略で下野に同じ。群馬県(上野国)と栃木県(下野国)を指す両毛地域は古代は上毛野国と下毛野国であったが国名が二文字になる際に上野と下野になったとされている。
・南に下る⇒現在も将軍塚のやや西から塚の南側に下る道があり、東村山市諏訪町へ出る。
・飽間氏⇒新田義貞の鎌倉攻めに参加して戦死した飽間斎藤三郎盛貞・同孫七家行、飽間孫三郎宗長の三武将を指す。
原文は「アクマ」と読み仮名しているが「アキマ」とするものもある。
・碑⇒元弘の板碑という国指定重要文化財を指す。供養のために建てられた緑泥片岩(りょくでいへんがん)を板状にした塔婆(とうば)で、次ページ「将塚暮靄-P2」で詳述される。

初有僧房 ⇒この部分は次ページ「将塚暮靄-P2」へ繰り越す。

【武野八景の七・将塚暮靄しょうちょうぼあい-P1】ここまで。

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